スターピープル64号・掲載記事

 

――真相とは何のことですか。

 たとえば、すずめの鳴き声が「チュンチュン」とあると、必ず「チュンチュン」ですね。このように、すべてはなるようになっています。真相とは、この「チュンチュン」です。事実(実物、本物)の「チュンチュン」です。思い描いた「チュンチュン」や「鳥の声」などの概念ではありません。「ああ、チュンチュンね」という理解でもありません。ここに私がいて(主体)、向こうに「チュンチュン」という声があって(客体)、ふたつ(主体と客体)が出合って「チュンチュン」(一つ)となる、というような考え方でもありません。聞いた、感じた、ということでもありません。ただ「チュンチュン」なのです。

 いま、試してください。右を向いてください。すると、即実際にある内容・様子ですね。真相とは、このことです。左を向いてみてください。即そのとおりの内容・様子ですね。このことです。「左の内容」という概念をもってももたなくても、「左を向けば左の内容・様子がある」と理解してもしなくても、「私が見ている」と意識してもしなくても、「左の様子を見よう」と頑張らなくても、必ずそうなりますね。

 さらに試してみましょう。目を閉じて、開けてみてください。目を閉じると、即閉じた内容・様子になり、目を開けると、即そのとおりの内容・様子ではありませんか。考えた内容ではないですね。

 今度は、お手元の雑誌に触れてみましょう。触れるとどうなりますか。やはり、即そのとおりの内容になりますね。違うものに触れてみましょう。即そのとおりの内容がそのとおりではありませんか。

 思いや考えも、思った時に思った内容がある、考えた時に考えた内容があるということです。例えば、「嬉しいなぁ」と思うと「嬉しいなぁ」とあるということです。

つまり真相とは、「いまの内容・様子そのもの」のことです。

そして、いまの内容・様子が「チュンチュン」であっても、「カアカア」とあれば、確実に「カアカア」といういまの内容・様子になってしまうんです。全取っ替えになってしまうんです。固定的な実体はないのです。残ることも積み重なることもありません。また、増えもしなければ、減りもしません。だから、思いをなくそう、執着を捨てようとする必要もないんです。

 また真相は、確実にかつ明確にそうでしかありえない内容・様子ですから、絶対的です。だから、迷いようがないのです。私がそうしようとしたわけではないのに、「チュンチュン」とあると、必ず「チュンチュン」なのです。「法」と呼んでもいいですね。

――自他はない、すべてはひとつであるとはどういうことですか。

 ほとんどの人は、「チュンチュン」とあると、「私」がこちらにいて、「チュンチュン」をあちらにある対象として眺めて、「チュンチュンがある」と捉えています。しかし実際は、「チュンチュン」とあるとき、「こちら」と、「あちら」は、ないのです。本当に元々「チュンチュン」だけなのです。

――「チュンチュン」だけと言われても、そう思えないのですが……。

 そうですね。私も初めてこのことを示されたときは、同じように思いました。なぜそう思ってしまうかの原因は、思考の作用にあります。

 思考の作用とは、それでしかありえない事実(チュンチュン)に対して、思ったり考えたり(鳥の声、綺麗な音、うるさい、チュンチュンだ、など)することで、その「思ったり考えたりしたことの方を、本当のように思ってしまったり。さらに、事実は必ず「チュンチュン」とあればそれ以外ないにもかかわらず、事実に対して多種多様に思えることで、そのもの以外に様々な何かがあるように思ってしまったり。さらに、ある事実が固定的に有ると思ってしまい、それがずっと有る(「鳥の声がずっと有る」など)、あるいは無くなった(「鳥の声が無くなった」など)ように思ってしまったり。また、向こう(チュンチュン)とこっち(それを聞いている自分)というふうに分れているように思ってしまったりするのです。これらによっていまの内容・様子「チュンチュン」だけと言われてもそう思えないのです。

このようにお伝えすると、思わないことが大事なのかと思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。事実と違うことを思わせる作用もあるということをお伝えしているのです。

 たとえば、お手元にあるこの雑誌は、本当はどうなっていますか。「私がいて、私とは別に、雑誌がここに有る」と答える方がほとんどだと思いますが、それは、思い込みだということです。

 もう少し説明すると、「私がいて、雑誌がここに有る」と思うことが止めば、いまある事実の内容(様子)だけがあり、向こうとか、こっちとかは元々ないということが、理論的には理解できると思います。

――理論上は理解できます。でもやはり納得できないのですが……。

 そうですね。真相とは何かをどんなに精緻に思考で理解しても、疑いがないほどには明確にはならないでしょうね。理解は事実を概念化してしまい、事実とは別の内容になってしまいます。これが、先ほどお伝えした思考の作用ですね。理解はどこまでいっても理解なんですね。真相そのものに代わることはできないのです。真相はそのとおりの内容であり、理解ではないのです。

 ですから、お伝えしているような説明を理解することは、修行(無為に坐る)のあり方などを知るには必要ですが、理解を通じて真相が明確になることはありません。やはり自分で体験をしてハッキリするしかないのです。つまり、悟るしかないのです。

――悟るとは、つまるところ、どういうことなのでしょうか。

これからお伝えしますが、お伝えすることが本当だとなるには、自分で悟るしかありません。このことをご理解いただきお聞きください。

悟るとは、「いまあるとおりの内容・様子(チュンチュン)がそのまま真相だった」ということがハッキリしたということです。

疑いなくハッキリするためには、「チュンチュン」を考えて対象として認識することなく、「チュンチュン」どおりにある必要があるんです。

「チュンチュン」と気づいたら「チュンチュン」そのものだったんです。「チュンチュン」のみでその他一切何にも存在しないのです。当然、「チュンチュン」を対象にしている「私」も不在ですから、わかったとか、わからないとか思う「私」がいないのです。だから、本当にこれは真相なのか、などと疑うこともできないのです。「私」というものも、思い込んだもので、事実として元々ないこともハッキリします。

付け加えると、私は不在ですから、「私は悟った」とも思いませんし、事実は得ることではないので、「悟りを得た」とも思わないです。

「チュンチュン」のように、悟る時には、必ず悟るきっかけになる事実があります。なので、太鼓の音「ゴーン」で悟ったなどの話が残っているんです。

――自分で悟ったことがわかるのですか。

 はい、わかります。先ほどお伝えしましたように、事実(今あるとおりの内容・様子)以外一切何にも存在しないので、つまり、疑う余地がないので、真相がハッキリしたことが自覚できます。自分でハッキリするから確かなんです。自分で悟れるからいいんです。

――悟った後で、もとに戻ったりしませんか。

 ありえません。「チュンチュン」とあれば「チュンチュン」といういまある事実が真相であり悟りの内容ですから、戻るとか戻らないとかとは、関係ないことです。

もし、後々ハッキリしなくなった、疑いが起き始めた、ということが起きたならば、そもそも最初からハッキリしていなかった、ということです。たとえば、「チュンチュンがすべてだ」「チュンチュンしかなかった」「これが真相だ」などとわかるような体験だったとしたら、必ず疑いが起き始めるはずです。なぜならば、わかったということは、それは自分が考えで決めたということだからです。先ほど申し上げたとおり、悟りは事実そのものであって、わかることではありません。「チュンチュン」がわかったということは、事実を対象とした、つまり「私」がいたということです。それは悟りの内容ではありませんね。そういうことがあったとしたら、心底ハッキリするまで、疑いが無くなるまで、修行(無為に坐る)をすればよいだけです。

――悟る前と後では、どのような変化がありますか。

 真相を探すこと、真実を求める必要がなくなった、ということが大きな変化です。元々そうであった、いまの内容・様子がそのまま真相である、ということに疑いがなくなったわけですから、変化したものはないとも言えます。だからこのまま素でいられるのです。

 いまの内容・様子が真相ですから、悟後の修行も不要ですし、先程お伝えしましたように、ハッキリしたかしないかですから、悟りの段階もないです。何かを得たとか、何かに成ったというようなこともありません。

――悟ると、すべてに対して感謝があふれ、いつもの食べ物が美味しく感じられたり、景色が美しく見えたりする、ということを聞きますが…。

 そういうことはないです。いま、何か食べ物があるならば、それを口に入れてみてください。入れた途端に入れたようになる、それが真相です。右を向くと向いたようになる。それが真相です。これ以上の味わいはありません。どれもこれも真相の味わいですね。そのとおりの味わいがいちばんの味わいじゃないですか。

――悟るためには、どうしたらいいのですか。

 「チュンチュン」とあれば「チュンチュン」です。すでに真相なわけです。これは、すでに、誰もがそうなってしまっているわけですし、理解でもないわけですから、何もする必要がないですし、何もできないのです。

ですので、何かの状態を維持しようとか、何かを得ようとか、思いを無くそうとかなど、何かしようとすることは一切せず、万事を休息して、ただ無為に坐る(いる)だけです。

――誰もが悟れるのですか。

 はい、もちろんです! いまある内容・様子がない人はいませんから。無為に坐れるようになれば、難しくはありません。実際に、仕事や家族の介護をしながら修行(無為に坐る)を行い、短い修行期間で悟った人もいます。ただ、難しいと思う人が多いのは、いつハッキリするかがわからないからだと思います。

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